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沖縄硝子

¥10,000 税込

SOLD OUT

この商品は送料無料です。

制作:下道基行
年月日:2015.6.22
サイズ:70×30×30mm
素材:再生ガラス
場所:沖縄県
協力:Glass studio 尋

下道が沖縄の海岸を歩き回り、様々な国から流れついたガラス瓶を混ぜ合わせ溶かして作ったガラス。食器制作の中でたまたま出来た形で、用途は不明。
このガラスはこのガラスを制作した2015年6月22日の地元新聞で梱包されています。


"Okinawan Glass"
creater:Motoyuki Shitamichi
date:22.6.2015
size:70×30×30mm
material: recycled glass
place: Okinawa Japan
cooperation:Glass studio Hiro

【説明】
このガラスを作る1年前の話。
僕は、沖縄の古道具市である皿を見つけた。
たたいてみるとカンカンと金属の音がした。古道具市の亭主はこれが「ジュラルミン製の皿」だと教えてくれた。2000円。
調査を進めると読谷村の民族博物館で同じ物をみつけた。「村で家の立て替えとかの時に捨てるのはもったいないからと博物館に集まってくるんです」の学芸員の方は教えてくれた。
読谷村には戦中に日本軍の飛行場があり、戦後に破壊された戦闘機が沢山放置された。その戦闘機の残骸を材料に、地元のナベ屋“ナービヤー”が溶かして型に流し込んで作ったものがこの皿。ジュラルミン製民具製造が地域の第一産業にまでなった。しかし5年ほどで、戦闘機の残骸を使い切り、ジュラルミン民具産業は徐々に消えたという。
皿の裏の高台を見ると、何やら型を作ったときの元の皿の文様が残っているに気がついた。紙と鉛筆でこすってみると「WATERTOWN WARE」という文字が解読できた。ネットで調べてみると、ニューヨーク近代美術館に収蔵されたプスチック製の皿と全く同じ形だった。1944年に海軍によって作られた強化プラスチック製の皿で、今ではデッドストックだと言う。
戦時中か戦後に、アメリカによって持ち込まれたプラスチック製の皿は、沖縄のナベ屋さんの手に渡りこの皿の鋳込みの型になったのだ。
アメリカと日本による悲惨な戦場になってしまったこの小さな島で、戦後その二つの国家が捨てていったモノを、沖縄の職人が混ぜ合わされて結晶化した民具。重たい歴史を抱えた小さな「モニュメント(歴史的記念碑)」でもあるこの皿は、今から新たに料理をのせることができる空っぽの器でもあり実に軽やかで可能性に満ちている。光を当てると、影が現れ、鈍く銀色に輝いていた皿を眺めながら、「月」のようだと思った。

この皿において、僕が引っかかっているのは、表面的な造形だけではなく、いくつかの素材の出会い方であり、身近な日常の存在の中にそれを見つけたいのだと思う。
『遠い場所からやってきた物と物とがそこで出会うことを想像する』そこには時間と空間を越えた旅を感じる、その時、妙な”骨董感”を感じたりするのか。遠く離れた時間を想像する物に骨董はある、では、例えば、時間はそこまで古くないけど、遠くは慣れた”距離”を想像する物の中に骨董感、もしくは”新しい骨董”感はあるだろうか?
「新しい骨董」という言葉のイメージとしては、「はじめて発掘される」雰囲気があるのかもしれない。つまり、新しく発掘された存在(もしかするとそれは物ではなく意味や価値観かもしれない)。地中深く掘る考古学ではなく、地中浅い部分。もちろんモニュメンタルな存在感がまだ未完成なものかもしれない。そう考えると、ジュラルミンの民具というのは、今から食事を盛りつけられるという意味ではモニュメンタルを逸脱しているが、カンカラ三線(戦後に貧しい時代に空き缶で作られた三線)などと同様に、「沖縄の戦後の象徴」として既に地元博物館の戦争コーナーの端っこにあって、地元ではある意味でモニュメント化が完了している。つまり、ジュラルミンの皿は”新しい民具”ではあるしいまだに力強い存在だけど、”新しい骨董”ではないのかもしれない。



そん事を思考しながら、沖縄と八重山諸島を旅した。
台風19号の後だということもあり、美しいビーチはゴミの山だった。ペットボトルや発泡スチロールが多く、その他にも漁業の道具やビーチサンダルや生活用具など。台湾、中国、韓国、東南アジアなど、様々な国から色々な物が流れて来ていた。
その旅のなかで、島々の海岸を漂着物を見ながら歩くことを日課にすると、すぐに風景の見え方が変わっていった。まずは、漂着物が多い海岸とそうではない海岸があることに気がつく。理由は様々あるが、季節風や観光の為の清掃や海岸の地形などが関係するようだ。もうひとつ気がついたのは、実は少なくない人数が、頻繁に海岸の漂着物を見て何かを集めてまわっていること。朝、浜辺に新しくできた漂着物のラインには必ず新しい足跡が残されている。西表島のある海岸で出会った人は、海岸に打ち寄せた藻を集めて干していて、「肥料として畑に蒔くとトマトが美味しくなる」と話す。その他、漂着物の中で種子やおもちゃを集めている人や漂着物を組み合わせてお土産物を作っている人々や様々な人々にも出会って、いろいろな話しを聞く事ができた。全く知らない世界と住人がそこにいることに気がついた。
数ヶ月前、福岡県の玄界灘の海岸を歩き続ける漂着物研究の第一人者石井忠さんにお話を聞く機会があった。「漂着する木は、かつては集めて薪にしたり、海辺の社(神社)は寄木や寄船で造営されることもあった」と話されていた。さらに、「見つけた物が大きすぎる場合、石をのせて印を付けたり、隠したりするが、再び戻ると無くなっていることがある。」と悔しそうに話されていた。
現代美術の作家サイモンスターリングの「船-小屋-船」という作品を思い出す。これは、川の上流で木造の古い小屋を見つけた作家がその小屋を解体して、船に作り替えて川を下り、下流のスペースで小屋に作りもどして展示するという作品。移動とトランスフォームが絶妙に絡みながらも、展示されたものがさらに形を変える可能性を感じさせる。小屋は本当に小屋なのか、それは船にもなるぞ、というような、詩的存在が素敵な作品。


沖縄には様々な国から様々な物が流れつく宿命をもった地理。船も人も文化も流れてくるし、文化も侵略者も…。ニライカナイという沖縄の思想には、海の向こうから神が豊かさをもたらしまた帰るとされる。そこには病気や外敵な逆の物も含まれる。沖縄という土地は様々な善くも悪くも「寄せるもの」を受け入れ、付き合って来た(編集してきた)歴史がある。武器ではなく、生きる力で戦って来たように感じてそこに強く魅かれる。ジュラルミンの皿もそういう存在だ。
沖縄には琉球ガラスの工房が沢山ある。琉球ガラスの歴史は、明治時代に長崎や大阪からやってきたガラス職人によって始まったが、基本的には戦後、進駐軍が使用し廃棄されたコーラやビールの瓶を材料に再生ガラスとして彼らのお土産用の器が作られ始め、現在に至る。現在でも多くの工房は、コーラの瓶にかわり泡盛の空き瓶を回収して再生し食器を作っている。現在も琉球ガラスは観光と結びついていて、誤解を恐れずにいうと、この「土産物さ」と切り離せない部分に、ここのガラス文化らしさや呪縛はあるのかもしれない。

「海に流れ着く様々な漂着瓶でガラス食器が作れないか?」そんなことを思った。戦後進駐軍の捨てたコカコーラやビール瓶を材料に逆に米軍にお土産物として再生ガラス製品を売りつけたのは過去の話、今では再生ガラス用には人々が飲んだ泡盛の空き瓶が使用されている。しかしこれは”限りある資源”でガラス職人みんなが使える資源ではないそうだ。では、沖縄の周辺の中国をメインにアジアの国々から大量に流れてくる流れ着く漂着瓶は現代のそれになりえる?と思い調べてみると、なぜか誰も使っていないと言う。早速海岸に流れ着くガラス瓶を集めて、ガラス工房に何件か連絡してみた。しかし、協力してくれる所はなかなか見つからなかった。漂着する瓶から再生ガラスを作ることには、いくつかのハードルがあったのだ。「ガラスは種類によって膨張係数が違うので、色々なガラスを混ぜるとほぼ必ず破れること」と「工房のガラスの窯の坩堝に外から持ち込んだ色々な見知らぬガラスを入れることは大変な労力のいることで、やってくれる職人はいないのではないか」ということ。
職人さんは普通の生活で使用できない食器など作りたがらない。冷めると破れるだろうガラス制作であるし。ただ、僕としては形成した後、ガラスが破れてしまうことも含めて興味が湧いて来くる。それは、”僕が”色々な国から来た物を混ぜて一つの物をつくる部分に感じる帝国主義的雰囲気への気持ちの悪さ、さらに逆にそれが生成が難しいという事実の面白さ。そして何よりガラスに関わる人が口を揃えて「破れるからやった事はない」と聞いていると、逆に作ってみたい気持ちをかき立てられる。
制作協力をお願いできるガラス作家/職人さんを捜した結果、奇跡的に興味を持って協力して頂ける方に出会うことができた。それは素敵な出会いの連鎖だった。
指定された日に工房に行き、拾い集めたガラスボトルは、ハンマーで砕いた。炉の中に入れ、1日かけて溶かした。翌日、指導を受けながら、ドロドロに混ざりあったガラスを吹いて食器を作る。熱せられ赤々と光るガラスにはいくつものスジが見えた。「これはいろいろと混ぜたから、普通より吹いた時にも丸くなりにくいな」と話した。
出来上がった食器を除冷を行いさらに翌日、工房に行く。制作した食器は破れていなかった。「混ぜ合わした様々なガラスの相性が偶然良かったのかも。奇跡的」「でも、これから数ヶ月後に突然破れる事もあるよ」と。
ガラスは固まっているように見えて、非常に流動性のある存在だという。陶芸は土と言う生ものを焼くことで固める感覚があるが、ガラスは少し逆の感覚を受けた。漂着したぼろぼろの瓶は窯で焼かれ新しくより生なものに生まれ変わったように、緊張感があった。
出来上がったグラスに光に当てると、置いた台に、様々な瓶の混ざりあわないガラスの層が影として見えて、非常に美しかった。何より、実際に見えないが、このガラスの中に様々な場所や時間が混ざりあっているということが、不思議な気持ちにさせた。

2014年にはたくさんの出会いや協力の元、コップが7個程度出来上がった。翌年2015年にも海岸を歩き制作し、コップ13個+その他少々を制作。
この出来上がったコップたちはまだ販売等はしておらず、一度だけ沖縄の陶芸家さんと皿と物々交換したのみ。
今回のこの商品は、2015年制作。コップなどの食器を作る中で、水差しの蓋のようなものを垂れたガラスで作ろうとしたが上手く行かなかず、しかし何か美しい。それ以来家の机の上に放置されていたもの。いつか何かに使えそうな存在である事と、シンプルな液体的な形状や、色々な瓶を溶かしたせいでできた様々な大きさの空気の粒なども美しい。熱すれば形を今から変える事もできる。これは『新しい骨董』として作った物ではなかったが、机の上に無造作に置かれたこの欠片こそ『新しい骨董』ではないかと考え、ここにはじめて販売してみる。この同じ形の固まりはもうひとつ、机にあり、そのひとつがこれだ。

ちなみに、このガラスはこのガラスを制作した2015年6月21日にその日の地元新聞で梱包してある。
浮世絵がフランスやヨーロッパに流れ着いた話から着想。食器を梱包した紙は、意図せず時間を越えてある時代を保存し伝えたり、空間を越えてイメージや物語を異国に伝えたりする可能性を持っている。

「証明書」として、この販売ページをこの文章ごとプリントしてそこにサインが入ります。(これは他の商品も同様)

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